昭和50年01月24日 朝の御理解



 御理解 第9節
 『天地金乃神は宗旨嫌いをせぬ。信心は心を狭うもってはならん。心を広うもっておれ、世界を広う考えておれ、世界は我が心にあるぞ。』

 世界は我が心にあると。此れはあの教祖様の心の中に世界があるぞと、教えておられる教えだと思うのですけれども。私共の心我が心と仰る。自分の心の中に世界があると言う程しのおかげを頂かなければならない。それには心を狭う持ってはならぬ。心を広う持たなければならない。例えて申しますと、此処で私は合楽に御神縁を頂いておる御信者、言うなら皆さんの事を日々神様にお取次ぎをさせて頂きます。皆さんの上に日々様々な事があります。有り難い事又は有り難くはない事。
 困った事難儀なこと色々あります。そう言う時に私自身も思うのですけれども、又皆さん自身もまぁ、思いなさらなければならないと言う事は、言うなら私の日々の祈りの中に起こっておる事だと言う事です。ですから皆さんとしては、親先生お取次の働きの中に祈っておって下さる。祈りの圏内の中に起きておる事だと言う風に頂かれたらいいですね。なら皆さんがです、自分の家の事を願われる子供達の事を願われる。
 それは信心がなくても矢張り親として子供達の事、家の事願わなきゃなりません、願います。切実に願えば願うだけ、私はなら子度達の中にどう言う例えば、問題が起きて参りましてもそれは困った事じゃないです。一々私が此の様にお取次を頂いて、お願いをさせて頂いておるその圏内に、起きておる事だからと言う所に、私は安心があると思うんです。結局自分の祈りを信ずると言う事です。
 又祈られておる自分を分からせて頂く事です。そこにはです、例えばなら自分の一家親戚の事を、祈っておる方が切実に祈っておられてです、そして起きて来る様々な事柄を、自分の祈りの圏内に起きておる事だと、頂かれたら親戚中自分の子供家族の事は、あなたの心の中にある事になるのです。我が心の中にある事です。ですから折角ね、あの祈るならその位の確信を持った、祈りを持たなきゃ駄目だと言う事です。
 こがしこお願いしょっとに、どうしてこげなこつが起こったじゃろうか、なんて言う事じゃいけんと言う事。祈りを神様は聞いておって下さらんはずはない。そういう祈りの中にこう言う事が起きておるんだと言う事なんです。それが段々なら此れを広めて行ったらいい訳です。私が例えば、世界中の事をまぁ、祈らせて頂くと致します。世界総氏子の身の上安全ね、世界真の平和を愈々祈らせて頂いておる。にも係らず何処何処では何処の国と、何処の国が戦争を始める様な、例えば模様があるとするならばです。
 祈らせて頂いておる私自身が、お詫びなければならない事だと思うんです。その変り又反対の良い事が起きたならばです、神様にお礼を申し上げる様な、心の状態が開けて来なければならない事です。親鸞聖人様があの、仰ったという言葉の中に『世の中の全ての事がこの親鸞一人の為にある』と言う風な意味な事を言っておられます。世の中に様々な事が起きて来る。難儀な問題が起きてくる例えば。それはね親鸞自分一人のためにそういう難儀な問題が起きて来るんだと言う訳です。
 いかに親鸞が世の中修行の上に付いての強い祈りを持っておられたと言う事を感じます。例えば此のそれこそ合楽の、合楽運動の文句じゃないですけれども『南に連なる耳納山ですね、北の流れる筑後川 中に一際はっきりと光輝く道がある』と言う訳ですね。久留米から日田へのあの此の道の事を言う訳です。ですから責めて此のなら道の上でです、例えば事故など起こってはならんと言う位な、強い私は祈りを持たなければ、此れ私自身ね。そこでもし万一なら事故があったとするならばです。
 はらそげなんこつじゃったそれはと、言う位な事じゃ出来ん。何処でこげなん事故あっておりましたと聞くたんべんにです、ヒヤットする様な自分の祈りの陰て起こった事をです、私はお詫びする様な心の状態が、開かれて来なければ嘘だと思うですね。祈りがどれだけ浸透しているかは解らないけれどもです、そう言う心の状態を世界は我が心にあり、と教祖様は仰っておられたと思います。
 昨日ある教会のご信者さん方が、この頃月に何回か何時も三人出て参ってくる。一人の方は息子さんが所謂酒乱ち。もう酒を飲まない時には素晴らしい方ですけれども、お酒が一つ入ったらもうそれこそ、虎・狼も愚せんと言う様な事を平気でやってのかされる。一番初めに見えた時なんかもう、家財道具でも何でも叩き崩してまうと言う様な。その為に嫁さんはもう出て行っておられると。
 言う様なその難儀な様相の事を、聞かせて頂いたんですれども、段々おかげを頂かれて昨日、参って見えて此の頃はね、息子が酒を飲まんごつなりました。もう晩テレビを見てからもう早う寝ろ寝ろと言うてから寝てしまいます。またその横の方がもう、私は長い間金光様の信心をしよりますけれども。ずうともう医者代薬代の薬の、医者にかかっとらん事無い、位に私の方は弱かった。所が不思議に合楽にご神縁を頂く様になったら薬を飲まんで済む様になりました。
 私自身もこんなに強うなったというお届けをしておられました。話を聞くと此れは自分のお参りしておる教会じゃ長年参りおるけれども、その三人がです信心のグループで話しておる。此れはもう此処の教会じゃもうおかげは頂かんですばいち。で、いっちょ何処の近所にその因縁切りという仏様がおるなさるけん、そこになっと参ろうかと言うて話しをしておる所に、合楽の話を聞いたと言うです。
 それで合楽にお参りをさせて頂く様になって御理解が有り難いお参りをするたんべんに、もうお年寄りですけれども、しっかり御理解を頂いて帰られる。そしてその方達が最近では自分の頂いておられる教会の、親先生若先生をはじめ教会の事をしっかり願われる様になりました。もう今日から信心を金光様の信心を辞めようかと言う。何処何処の因縁切りの神様がおられるからこの因縁切りでも参ろうかと言うて話しておる所に合楽の話を聞いた。信心が段々大きくなって行きょります。
 合楽にお参りをさせて頂く事になってからです、もう辞めようか思うておった教会の事を祈られる。言うならば、親先生若先生の事を祈り願われる様に段々なって来た。しかもそれは真剣に願われる様になって来た。私はその三人の方達に話を聞いて頂いたんです。とにかくね例えば何処教会の信者が何処何処に参ってはならん。言うなら合楽には参ってはならん。甘木関係は甘木関係で。久留米関係は久留米関係でなからにゃいけないといったような例えば、迷信を打破して行かなければいけない。
 信心が大きくなる為には言うならば、正々堂々。それこそ天地の道理に叶うた信心でなからなければ大きな信心にはなりません。あれはいかん此れはいかんと言った様な事で大きな、我が心に世界があると言った様な信心は開けて参りません。その証拠には丸々関係の方達が合楽教会に参って来て事実おかげを頂いておる。そして言うならば、金光様の信心が少しは広く深く解らせて頂く様になった。
 だからそう言う迷信を打破する所から、そういう思い違いを捨てる所からです、本当の信心ならせて頂いて自分のご縁を頂いておる教会のことが祈れれるになった。だからもっともっと信心が大きくならないけん。大きなおかげを頂きたいと言いながら小さい心ではおかげになりません。例えば痩せきれた人がどんなに力んだ所で大した力は付きません。ね。やっぱり先ずは大きく成る事が先決です。大きゅうならにゃいけません。そして様々な問題を通してです、言わば力を頂いて言うなら稽古をする。
 相撲取りさんに小さい人っておらんでしょうが。人並みが優れた大きな体をもっておって、しかも毎日言うならば、力の付く稽古をする沢山食べる。そして一生懸命の技も覚える力も付いて来る。それで初めて力が、言うならば大きな力が頂かれる様に。先ず自分が心が痩せ細ってはいけない。自分が小さい事では駄目です。どうでも一つ大きくならにゃいけん。豊かに大きくなら祭って頂ていかにゃけん。
 それでいて豊かに大きくなったその心でです、言うなら力の付いて行く、信心の稽古をしっかりさせて貰うところからです、大きなおかげが頂かれるのです。お互いが先ず大きなおかげを頂かなければならん、なら先ず大きなおかげの受けものを作らにゃいけん。言うならば大きな私にならにゃいけん。ですから様々な例えば問題が起きて来る、来る様な事があってもです。
 例えば親先生んの祈りの圏内に起きておることだからと頂けるぐらいな信心を頂かせてもらうことが私は大きくなった、なって行っておる事であると思うのです。そう言う大きな心にならせて頂いてそして信心の稽古を本気でさせて貰うから力が付くんです。小さい事にいうならば、こだわるくよくよする。迷信的な事に終始すると言った様な信心では、大きくなれるはずがありません。まず私は大きくならなければ豊かにならなければ、此れはあの相撲取りさんを見るが一番良いと言う事です。
 幾ら相撲取りさんでん小兵だと言うてもです、やっぱり人並み優れた体格をもっております。その上に技の稽古です。まず何と言うても大きくならにゃいけん。そこで一遍に世界中の事が祈れると言う様な世界が我が心にあると言う程しの事は出来んに致しても、自分の周辺の縁の限りの人達の事が神剣に祈れる位には一つならにゃいけません。そこにはです、例えば有り難い事が起きたならお礼を申し上げ、困った事が起きたら自分の祈り不足としてお詫びをして行く様な、私は心の状態が信心が必要だと思う。
 自分自身の例えば祈りの、言うならば切実な祈りを持っておるとするなら、その祈りの中に起きておる事だと言う頂き方。そう言う頂き方が嫌が上にも心を豊かに大きくして行く事ではないでしょうかね。そう言う風に心が大きゅうならにゃいけません。そして稽古です。そこからです言うならばね、まぁ福岡の方達やらならば福岡は我が心の中にあると言う様なね信心が出来たら楽しいですよ。
 不祥事があったりしたらね、其処は神剣に私の祈りが足りなかったとして例えばお詫びをする様な謙虚、信心をさせて貰う。有り難い事であったら、自分の事として有り難くお礼を申し上げると、言った様な言うなら生き方にならせて頂いたらどんなに、心が豊かになって行くか解りません。勿論おかげも豊かになって行くはずです。只自分の一家自分の事だけを一生懸命、例えば祈り願うと言う信心から例えば、先程申します様に金光様の、信心を辞めようとまで、さえ思うておった人が。
 金光様の自分頂いておるその教会の事を真剣に祈れる様になられた様に、私はその辺の所がね。昨日、日田のから毎日参って来る方があります。朝の御祈念に参って来てから帰られたらすぐ又電話が掛かって来たんです。そんで昨日私があの、私がものを言わなくなったら私がお国替えのおかげを頂いたら、後はその佐田さんと秋永先生がおられりゃ大体私の話が出来ると言う様な今、話した所が丁度此処に入って来られる時に親先生お国替えと言う所が響いて来たんですね。
 マイク。それからもう心臓があおぎ出してからもう本当にもう、此のまま自分は此処で死ぬんじゃないだろうかと思うたと言うのです。私はもう親先生のお国替えと、其処ん所だけを聞いた時にそういうその、今日から親先生の事を祈らせてもらう願わせてまらうと、本気で願わにゃいけんと思うですが、という電話が掛かって参りました。そうですね合楽では皆んなあの御初穂の方に親先生、親先生の御健康祈願と言った様な事を書いてお届けをなさる方が沢山あります。
 自分の事だけを真剣に願うというではなくてです。親先生が体が大体弱うなさるから、親先生が健康であって貰わんならんという、切実な祈りを祈り祈られると言う所にです私はだからそれはね、祈らなきゃーならん御初穂し奉らんならんと言う意味じゃないですよ。けれどもあなたがそういう言われる、明日から親先生の事を祈らせてもらう、御初穂のお供えなさったらどうですかね、と言う意味の事を申しました。それを聞いて安心したと言う事でした。
 それこそ言うなら、合楽の教会の上になら、困った難儀な問題起きたら自分達の事としてそれを祈れると言うか先ず手始めにね。自分一心一家の事は祈らねばですけれども。せめてなら合楽教会全体の事が祈れる位の信心には、一つ成長させて貰わなきゃならん。そして自分の祈りの圏内の中にあるんだ。はー、親先生は今日もニコニコして健康な風しておられる。そこで初めて神様ね、親先生今日も健康でおられると言う事を、お礼を申し上げる様な心も又、だから又出来て来る訳です。
 その様にしてです、信心と言う物は段々大きくなって行く。それが言うならば、世界中の事にも及ばせて貰う様な、おかげを祈れれる切実に祈れれるおかげを、頂いた時に初めて世界が我が心にある、と言う事に成るのじゃないでしょうか。信心は心を狭うもってはならん。広う考えておれと言われる事は、先ず私は心を広う大きくすると言う事は取りも直さず、大きなおかげが受けられると言う事なんです。
 ですから先ず大きなおかげを頂きたい、と思うなら先ず広い大きな心に成らせて頂く。そう言う祈りを本気で切実に出来れる、信心を進めて行きたいと言うのです。只唱え言葉だけの中にです、いかに世界真の平和総氏子身の上安全を只唱えておるだけではいけない。自分一心一家の事だって同んなじ事だ。只お願いをしておるけれども、何か起こったらもう慌てならんと。
 言う様な事ではその祈りが、いかに弱い物かと言う事を悟らにゃいけん。自分が此の様に祈っておって起きておる事であるからね、所謂一日親先生にお取次を頂いて、起きておる事であるから親先生の祈りの圏内に、起きておる事だとしてお礼が言えれる様な信心を、ね。先ず身に付けて行って言うなら、世界が我が心にあると言う程しの信心にも進んで行かなければならんと思います。
   どうぞ。